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7日は、JF歌津に行き漁協の職員さんと一緒にトラックに乗り込み、各集荷場へメカブの入った袋の回収に行きました。1袋平均25キロで重い重い・・・・
9時過ぎから午後3時までほとんど休みなくみっちり!相当きつかったです。
現地の人の話。「最近は被災地の報道が少なくなった。忘れられてしまいそうで心配。遊びにだけでも良いので来てほしい」と。
たった2日のボランティアでしたが貴重な経験もしました。浅口市の「福祉と防災の街づくり」に活かしていきたいと思います。
がんばれ東北!!がんばっぺ南三陸!!
普段は穏やかな志津川湾ですが地震による津波で多くの人をのみ込みました!
5日の夕方、新幹線と在来線を乗り継ぎ宮城県南三陸町に入りました。
陸前戸倉駅などJR気仙沼線は壊滅的被害を受けていて、バスでの代替区間があります。「JRの復旧は極めて困難」、バスの運転手さんの話です。
6日、高台にある南三陸町ボランティアセンターに行きました。連休最終日ということもあり、ボランティアは前日に比べて少ないとのことでした。
支援に入ったのは、泊漁港。午前中はメカブの切り落とし作業。午後からはワカメの仕分け作業でした。以前は近所の人が集まり作業をしていましたが、震災後仮設住宅に入っている人も多く人手がなく支援を求めているとの事でした。ここでのボランティアさんは学生さん、広島、長野、大阪からの社会人などで楽しく会話しながら、慣れない作業をしました。
漁師さんは、「この地域は海で稼いできたが、皮肉にもその海で甚大な被害を受けた。今も海はきれいだが震災前はもっときれいだった」と話します。
今は現地の人も、またボランティアの人もとても明るく、私自身も元気をもらいました。
お昼には、ワカメのしゃぶしゃぶをいただきました(主食は持参)がとても新鮮でした。
4時前にはボランティアセンターで報告。その後宿泊先まで、1時間少々南三陸の中心街を歩いて帰りました。中心街といっても今はほとんど何もなく、瓦礫こそ少ないのでしょうが、震災の爪跡もいたるところにあります。
あの防災庁舎にも立ち寄りお線香をお供えさせていただきました。
テレビの映像や新聞の写真だけでなく、実際に現地を見たことも収穫でした。
漁港のお母さんの「ありがとう!またどこかで出会いましょう」という言葉が印象的でした。
「北の国から」などを手掛けた脚本家の倉本聰さんが終戦前後、浅口市金光町大谷に疎開していた事実を多くの人に知ってもらおうと、「倉本聰金光ファンの会」がゆかりの場所に説明看板を設置していおり見に行きました。
看板には次のような倉本さんの文章が紹介されています。「当時の小学校5年生で、初めて1年に入学した妹をつれ、30分ほどの道程を吉備校舎といはれた国民学校に通ったのだが・・・僕にとって何といってもこの山村の1年は強烈新鮮な記憶となってやきつく」。
金光での体験が「北の国から」の原点になったことなども解説されています。
私の実家は大谷で、疎開地の近くにある寂光院はよく来ていました。
桑野和夫 日本共産党 浅口市議 携帯090-4698-4070 tel.0865-42-6329 メールはこちら 08年2月11日公開